で、いきなりこんな場所に来ました。
ここは、二ケ領用水が流れている川の淵です。
そしてブロンプトン君の前に何やらありますよ。
そうなんです、ここは二ケ領用水の久地分量樋跡(くじぶんりょうひあと)でした。
「分量樋」(ぶんりょうひ)というのは、前回のポタで行った「円筒分水」よりもだーいぶ以前、江戸時代にできたもので、二ケ領用水の水を均等に分けるためのものですよ。
まあ円筒分水の大先輩というところですね。
前回のポタではここには来てなかったですから、本日はここがメイン会場です。
じつは、ここは道路と二ケ領用水の間の、ほんのわずかな「すきま」の上なんです。
通行の人は、ふつうは反対側の立派な歩道をあるくので、近くのおかあさんたちはここに碑があることなんて、だーれもだーれも知らないでしょうね。
反対側の歩道からも、まったく目につかないですよ。
なんとかしたらいいのにね。
そんなイジメにも負けず(?)、この碑はトラックの排気ガスにも負けず、さん然とここの由来を示しているのでした(だいぶおおげさ)
つぎの写真は碑がある場所のようすです。
ネ、こんなんですよ。
それで二ケ領用水の右側ですけど、住宅やいくらかガケっぽくなっているので、たぶんこの分量樋で分けられた用水は、左側の道路に沿って流れて行ったんでしょうね。
それにしても目立たない場所ですね。
そしてこの碑の近くには円筒分水があります。
本日も来ましたよ。
円筒分水の前のこの集合写真に目が留まりました。
工事完成の集合写真ですね。
羽織袴の紳士や、ステッキをもってコートを羽織った紳士も写ってますね。
つぎの写真のこのお方は、斜めに構えてますよ。
モデルさんの素質がありますね。
うん?、この写真、撮影が明治43年4月とありますね。
この写真は円筒分水の前に掲げてますけど、円筒分水が完成したときの写真ではなくて、分量樋の完成の写真ですね。
さっきの碑にもあったように、円筒分水は昭和16年にできてますからね。
ということは、
久地分量樋は江戸時代にできてから、たびたびの大雨からの氾濫で、作っては壊れての繰り返しで、明治43年にできたときに記念の集合写真を撮って、その写真がこの集合写真というわけですね。
明治43年にできたこの写真の分量樋は、どれだけながもちしたのかな?
昭和16年の円筒分水完成までに、何度か壊れてないのかな?
そんな疑問がいろいろと湧いてきてふと見たら、信号も円筒分水でした。
ここで国土地理院さんの空中写真を使って、久地にある二つの名所(?)を示します。
これだけ近いんです。
※上図は国土地理院タイルに場所等の名前や記号を追記して掲載
○月日:2020年5月23日 土曜日
○時間:13時~15時
○場所:高津区久地
○距離:13Km
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●出典・地図について
このブログに使われいてる地図や空中写真の一部は、国土地理院発行の電子地形図「タイル」、陰影地形図「アナグリフ」、空中写真などを複製し、自転車走行軌跡や記号等を追加して掲載してます。
地理院タイル一覧ページ
https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html