ブロンプトンで遠足

歩いて散歩・ブロンプトンで散歩

遺跡は国分寺崖線に沿って 下布田遺跡・古天神遺跡

小さな梅の花が、陽に向かって、おもいっきり咲いてます。

ここの小さい公園で花を付けている木は、この一本だけでした。

この公園は「万葉の歌碑」の公園です。

 

公園というと、ちびっ子がワイワイしてるもんですけど、この公園は小さすぎて子供たちは寄り付かないですね。

 

それだけ静かでいいかな。

きょうはこれから「染地せせらぎの散歩道」に行きますよ

 

気になっていたものがあるので、出発です。

 

・・・

 

で、ワッセワッセと走ります。

 

ここは、染地通りのバス停。

 

平日で通勤時間から外れた今は、バスを利用する人はいません。

 

そもそも歩いている人は、おじいさんとおばあさんだけ。

 

ほとんど昔話の世界です。

おじいさんとおばあさんを追い抜いて、やって来ました「染地せせらぎの散歩道」です。

 

ここにも、だーれもいませんでした。

それで何を見に来たかというと、散歩道の入口脇にあるこの説明です。

 

風と雨にさらされて、読むのがだーいぶ苦しいですね。

 

でも、じっくりと読みました。

 

つぎがその内容です。

 

染地せせらぎの散歩道
由来


武蔵野の崖線「はけ」下には湧水が多く
沢ガニがすみホタルが飛びかい ワサビが作られていた
ここ染地せせらぎの散歩道の下には 
かつて根川 根堀 はけ田の川と言われる川が清涼な湧水を集めて流れ 田を潤し野菜を洗い
子供たちは水遊びに興じる野の川があった
江戸時代この地は幕府領で 上ケ給村の人々は
豊かな水を利用し稲を育て 昭和四十年に多摩川住宅ができるまで千田耕地と呼ばれる広大な水田地帯があった
染地の「はけ」周辺は水と緑に恵まれ 狩猟採集の時代から平安時代に及ぶ遺跡が集中し古来より今に至るまで人々の故郷であった
昔の自然と暮らしをしのび その面影を後世に伝え残すために 染地せせらぎの散歩道がつくられた

 

この内容の、

狩猟採集の時代から平安時代に及ぶ遺跡が集中し古来より今に至るまで人々の故郷であった

というところに注目しました。

 

そこで今回のテーマです。

これまで書いたブログで、交通標識の「万葉の歌碑」の女性の絵から、染物の話になって、万葉の歌ができるような環境は、この地が裕福だったのだろうという発想をしました。

「染地せせらぎの散歩道」の説明には狩猟時代から多くの人がこの地に暮らしていた、と書かれてます。

ということは、狩猟の時代から生活しやすい場所だったんだろうと、またまた勝手に想像しました。

そこで今回は、古代の人たちが生活していた根川の近くの遺跡を見に行こう、ということにします(説明が長い)

  

ところで、こっちが散歩道ですけど、本日もだーれもいません。

ただ一人、寒椿さんだけでした。

寒椿さんとはサヨナラして、遺跡を見るためにペダルをさかんに回してます。

 

 やってきたのは「狐塚古墳」(きつねづかこふん)

 

住宅地の真ん中にあって、なんの飾りもないですね。

 

でもすこーし、土がコンモリしてますよ。

案内によると、古墳の整備はまだ先ということでした。

 つぎに来たのは「下布田遺跡」(しもふだいせき)

 

「国史跡」ってありますよ。

 

たいへん重要な史跡です。

 

ここから見ると、木立の向こうが少し盛り上がってますね。

 

ここは崖線の裾野になるのかな。

下布田遺跡には、こんな立派な施設があります。

 

たぶん出土したものの展示と研究施設なんでしょうね。

 

ここを見学するのには予約が必要のようでした。

 さいごは「古天神遺跡」

 

ふるてんじん、と読みましょう。

 

ここは立派な公園になってました。

 

でもちびっ子の姿がありませんね。

公園の中央は、かなりランダムに盛り上がってます。

 

これではボール遊びはできないですね。

 

ふつうの公園なら遊びやすいように、たいらにするんでしょうけど、この土の下は遺跡ということなので、いろいろと工夫をして、こんなにコンモリした形になったのでしょう。

 

この古天神遺跡も、入口とは反対側の道路から見ると、かなりの小山になってました。

古天神遺跡には蝋梅が似あいます。

ここまでが三ヶ所の遺跡に行って見たものです。

 

ここからは、机の上でゴニョゴニョしますよ。

 



 

この日行ったところを地形図にしました。

 

三ヶ所の遺跡は、根川にも近いです。

三ヶ所の遺跡のアップです。

 

こうして地図にすると、三ヶ所の遺跡はお互いが、かなり近いことがわかります。

 

ほとんど町内さんですね。

そして次は影を付けた地形図です。

  • 三ヶ所の遺跡は、崖線の近くにあります。
  • 古天神遺跡と下布田遺跡は、崖線にぴったり沿ってます。
  • 現地で見たところでは、古天神遺跡は崖線の上、下布田遺跡は崖線の下ということでしょうか。

遺跡がある場所というのは、その時代に人々が集まって村を作っていた、ということですよね。

 

人々が集まる場所というところは、住みやすいということにもなります。

 

住みやすい場所は、水があって食べ物がある、この崖線だったんですね。

出典:上の各図は国土地理院タイルに場所等の名前や記号を追記して掲載
国土地理院ウエッブサイト
https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

●記録

月日:2021年1月22日 金曜日

時間:11時~15時

場所:布田・染地周辺

距離:17Km

 

●出典・地図について
このブログに使われいてる地図や空中写真の一部は、国土地理院発行の電子地形図「タイル」、陰影地形図「アナグリフ」、空中写真などを複製し、自転車走行軌跡や記号等を追加して掲載してます。
地理院タイル一覧ページhttps://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html