先日の自転車のチェーンが外れた日に、どこをウロウロしていたかを書きますよ。
ここは等々力駅のすぐ近くです。
世田谷区のなかでも、住宅地のドマンナカ。
とあるスーパーマーケットの駐車場にいます。
そして目の前には、こーんな建物が見えます。
カヤブキの古い雰囲気が、モワモワと漂っていますね。
この建物は、世田谷区の有形文化財の指定を受けている「鈴木家住宅穀倉」です。
倉の前には、りっぱな案内がありました。
こういうものを見ると、ぜーんぶ読んでしまう人なので。
ナニナニ、フムフム、ははーん。
これを読むと、この鈴木家さんは、いろいろなものを商いしていたらしです。
そのなかに炭があったそうですよ。
炭は、青梅のほうから、多摩川を筏に乗せて運んできたとか。
そして「炭河岸」というところで、荷揚げしたんだそうです。
で、これからが肝心。
「炭河岸」は、野毛と玉堤境にあったと書かれてます。
そうなると、「炭河岸」の場所が知りたいですね。
ということで、
今日は、これから「炭河岸」の場所を探しにいきましょう。
「炭河岸」に行く前に、こっちから見ての一枚。
こういうのを「蔵」ではなくて、「倉」というんですね。
ハイ、ワッセワッセと走ってきて、ここはほとんど多摩川の川べりです。
わたしの右の道路は、多摩堤通り。
カラっ風のなかを、クルマがビューンと走ってます。
できるだけ、からだを左側に倒しての写真が、つぎの一枚です。
バス停の名前は「玉堤小学校」
玉堤は、そのまま「たまづつみ」と読みますよ。
しかし、よくこういう場所にバス停を作ったね。
そしてここは、野毛と玉堤のだいたいの境界です。
つぎの写真は、目の前の風景で、まったくの多摩川そのままです。
そして帰ってきて、ゴニョゴニョと作業をしました。
つぎの地図は、地理院地図に鈴木家穀倉とバス停を載せたものです。
地図のまんなか、黄色の高速道路の上あたりが、等々力渓谷です。
出典:上図は地理院地図に場所等の名前や記号を追記して掲載
国土地理院タイル一覧:https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
そしてつぎの地図は、明治45年のものです。
鈴木家穀倉とバス停の位置関係がわかりますね。
下の地図で、バス停の下の空白部分は、多摩川です。
出典:この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(C)谷 謙二により作成されたものに、場所等の名前や記号を追記して掲載
多摩川は「あばれ川」と言われるくらい大水になると荒れていたそうで、たびたび形が変わっていました。
この地図では、うまいこと、バス停の前に流れの膨らみができてます。
それは、ここの流れはゆるやかだ、というこですね。
ここは、筏を留めて炭をおろすには、都合がいい場所なんですよ。
現地で読んだ倉の説明と、この地図を見ていたら、頭のなかにBGMが流れました。
にほん昔話しの、はじまりはじまりー
♬ ぼおやー、よい子だ、ネンネしなー ♬
むかーしむかし、青梅の村に、筏乗りの与作という若い者がおったそうな。
働きものの与作は、今日も、筏に炭を乗せて、出かけることにしたんだとか。
もちろん、筏の行き先は、多摩川のおしまいのところ、六郷の岸。
それでもって、いろんなものを筏に乗せた。
炭もいっぱい乗せた。
与作は、筏を出して、多摩川の流れに乗ってドンブラコ、ドンブラコッコ。
そんなこんなで、なんとか世田谷村の野毛に着いたそうな。
与作は汗をふきふき、
“ さて、ここらで炭をおろすか ”
“ ここの淀みは波もねえし、いいあんばいだ ”
与作が、ここでいっつも休んでいるのを見て、いろんな筏乗りたちも、この岸で炭を下すことにしたんだとか。
それで、ここを、いつしか「炭河岸」と呼ぶようになったそうな。
めでたし、めでたし。
●12月16日の記事 炭の運搬ルートをポタしました
二つの古い話から、炭河岸の場所を探す
●出典・地図について
このブログに使われいてる「地理院地図」は、国土地理院発行の電子地形図「タイル」、陰影地形図「アナグリフ」、空中写真などを複製し、自転車走行軌跡や記号等を追加して掲載してます。
地理院タイル一覧ページ
https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
今昔マップ on the web
https://ktgis.net/kjmapw/index.html